お湯が蛇口から勢いよく流れ出る。床とぶつかりぼとぼとと音を立てる。「本当に大丈夫ですか〜?」と私に呼びかけてくる。見てみると、風呂の栓が開いていたので閉めた。いつまで経っても湯量が増えず、お湯自身確証を得られなかったのだ。
お湯が一定量溜まると、お風呂というひとつのいきものになる。今まで楽しげに大雑把に浴槽を満たしていた水の塊は、気づけば、いきものに飲み込まれ制御されるだけのものだ。小さくうねり絡み合っている。
細かい音だ。ピチャピチャと音すらも飲み込まれて、浴室の外の音が鮮明になった。ちょうど洗濯の注水が始まる音だ。
私は安心した。
実家の2階の寝室に、古いClavinovaが静かに佇んでいる。
その電子ピアノには自動演奏機能が備わっている。授業から帰ったあとに、ふと触っているのに気づくことがあった。給食袋と宿題に飲まれて溺れていた私は、Clavinovaに触れている時間だけは陸に上がって呼吸することができた。
自動演奏によって行われる演奏と、スピーカーから流れる演奏は全く異なる。自動で演奏されるピアノを見て、私は弾いている身体を透かし見ることができる。
弾かれる鍵盤に導かれるようにして、この演奏を録音した人間の姿が浮かび上がる。
まっさらな白鍵と黒鍵を目の前にすると、私はうろたえてしまう。ピアノ科の母親は、誇らしい優雅な演奏を私に見せた。一方私はろくに曲も知らないから、鍵盤と睨み合う時間が生まれる。曲が弾けないとかっこわるいから。
Clavinovaは私の前でもう一度演奏を執り行う。鍵盤に指を預ければ、音をうやうやしく連れてきてくれる。私はただ待っているだけでよく、そしてこちらからいくつか違う鍵盤を押してみたっていい。どんなに変な音が鳴ったところで、Clavinovaはうろたえない。
指が鍵盤に包まれているだけで、私は安心できた。
自動演奏はスピーカーとは異なる。わからないはずなのにどう動くのかはわかるスピーカーと、わかるはずなのにどうして動くのかわからないClavinova。
自動演奏は観客として騒げる映画のようである。私も参加できるコーラスのような。でもどちらも正確ではない。私が彼らに影響を与えられると思えないからだ。
自動演奏は目の前で行われること。言ってみれば、過去と現在が重なる場所で行われている。過去YAMAHAに雇われた誰かが、今ここで再び演奏されるのだ。私は過去を召喚して、亡霊の姿を見、演奏を聞く。
日記帳の新たなページの真ん中に線を引く。日付を書き入れ、日付の上に薬を飲んだ証拠としてチェックマークをつける。日記を書いていない間もチェックマークはきちんと書き入れてある。
「家族史をたどるために、実家へ帰省した。祖母はかしこまっていた。……」
日記帳をとても久しぶりに開いた気がする。3日書いていない。言葉にするとたった3日だし、スペースとしてもたった1ページ半でしかない。たったこれだけの期間なのに、私はなにかから大きく隔たれてしまった。考えるべきこと、取り組むべきもの、善きこと、私を救うものがわからなくなってしまった。
もう一度日記を書き始める。書き始めるという言葉を使ってみたけれど、止まっていた時間が解凍されるというほうが感覚として近い。書いていないはずの3日間は私には存在しない時間であり、目眩ましのような強制的なシャットダウンによるものだからだ。書き辞めたのではなく書き止んだのだ。
話を実家のピアノへと戻してみる。
じつは、実家にはピアノが2台ある。2階の寝室にあるClavinovaと、1階の和室にあるアップライトピアノだ。どちらも自動演奏ができて、なんならアップライトピアノの方はよく練習に使っていた。それでも思い出すのは、Clavinovaだ。
Clavinovaは私とほぼ同い年の電子ピアノで、液晶もやはり古い。背景が緑色で黒字の、ゲームウォッチを思い起こさせる液晶だ。
「ボサノバ」
この半角のボサノバが古い液晶を流れてくる。その曲を選択すると、ザ・ボサノバの曲が演奏される。当時は特別だと思っていたが、
ハワイの、ヤシの木が街路樹として生えている広い道。オープンカーに乗って、水色地にハイビスカスの柄シャツを着た男二人が、はしゃいでいる。運転手はドアに手を乗っけている。Clavinovaの液晶に流れた映像だから、正確に水色のシャツを着ていたかさだかではない。それに、こんな映像が流れていたかどうかもさだかではないのだ。
それでも、やはり何度もこの映像が蘇ってくる。
一旦すべて退けて大きく距離を取ったあと、こちらから近づいていかないとやるべきことへは近づけなかった。一度お湯をすべて抜いて、ため直す必要があった。
根本から矯正しなければ、家から給食袋を持っていくことはないし、家で宿題をすることもできない。やれ、もってこいと迫られ、その場で泣くほど反省したところで、それらは手からすり抜けてしまう。
たとえため直したとしても、どこかのタイミングで、身体との接続が切られる。積極性を繕ってどこまでも進んでいこうとするけれど、実は限界というものがあった。(!)
日常に意識を向けられるようになるころ、私は見る。目の前をさっそうと通り過ぎる二人の男を。どこかで一つのジャンルになるまで枯れてしまったボサノバと、それを弾く亡霊を。
私は過去を召喚することで、ここにいることができた。お風呂は疲れて気持ちよく入れなかったが、洗濯物はちょうど終わっている。
添削の前に一回手直しをした
蛇口に指を沿わせる。まず1滴、指先へ水滴が伝っていく。バルブが開いていないのに、表面張力で水が湧いてくる。生き物が這い出てくるみたいで面白い。
お湯を張るためにハンドルを回す。
何百回と聞いたプレイリストを流しながら、髪を洗う。お湯が床をドスドスと踏み鳴らしている。栓が開いているから低い音を鳴らしている。ここを満たしていいのか?というお湯の不安を聞いた。
お湯が一定量溜まると、お湯の群れは一つのいきものとなる。とぐろを巻いて楽しげに蛇口から湧き出していた流れは、今や一体のお風呂に静かに飲み込まれるだけだ。
ピチャピチャと飲み込まれていく。浴室の外の音が鮮明になった。ちょうど洗濯の注水が始まる音だ。
私は安心した。
実家の2階の寝室に、古いClavinovaが静かに佇んでいる。その電子ピアノには自動演奏機能が備わっている。授業から帰ったあとに、ふと触っているのに気づくことがあった。給食袋と宿題に飲まれて溺れていた私は、Clavinovaに触れている時間だけは陸に上がって呼吸することができた。
自動演奏によって行われる演奏と、スピーカーから流れる演奏は全く異なる。自動で演奏されるピアノを見て、私は弾いている身体を透かし見ることができる。弾かれる鍵盤に導かれるようにして、この演奏を録音した人間の姿が浮かび上がる。
まっさらな白鍵と黒鍵を目の前にすると、私はうろたえてしまう。ピアノ科の母親は、誇らしい優雅な演奏を私に見せた。一方私はろくに曲も知らないから、鍵盤と睨み合う時間が生まれる。曲が弾けないとかっこわるいから。
Clavinovaは私の前でもう一度演奏を執り行う。鍵盤に指を預ければ、音をうやうやしく連れてきてくれる。私はただ待っているだけでよく、そしてこちらからいくつか違う鍵盤を押してみたっていい。どんなに変な音が鳴ったところで、Clavinovaはうろたえない。指が鍵盤に包まれているだけで、私は安心できた。
自動演奏はスピーカーとは異なる。わからないはずなのにどう動くのかはわかるスピーカーと、わかるはずなのにどうして動くのかわからないClavinova。
自動演奏は観客として騒げる映画のようである。私も参加できるコーラスのような。でもどちらも正確ではない。私が彼らに影響を与えられると思えないからだ。自動演奏は目の前で行われること。言ってみれば、過去と現在が重なる場所で行われている。過去YAMAHAに雇われた誰かが、今ここで再び演奏されるのだ。私は過去を召喚して、亡霊の姿を見、演奏を聞く。
日記帳の新たなページの真ん中に線を引く。日付を書き入れ、日付の上に薬を飲んだ証拠としてチェックマークをつける。日記を書いていない間もチェックマークはきちんと書き入れてある。
「家族史をたどるために、実家へ帰省した。祖母はかしこまっていた。……」
日記帳をとても久しぶりに開いた気がする。3日書いていない。言葉にするとたった3日だし、スペースとしてもたった1ページ半でしかない。たったこれだけの期間なのに、私はなにかから大きく隔たれてしまった。考えるべきこと、取り組むべきもの、善きこと、私を救うものがわからなくなってしまった。
もう一度日記を書き始める。書き始めるという言葉を使ってみたけれど、止まっていた時間が解凍されるというほうが感覚として近い。書いていないはずの3日間は私には存在しない時間であり、目眩ましのような強制的なシャットダウンによるものだからだ。書き辞めたのではなく書き止んだのだ。
話を実家のピアノへと戻してみる。
じつは、実家にはピアノが2台ある。2階の寝室にあるClavinovaと、1階の和室にあるアップライトピアノだ。どちらも自動演奏ができて、なんならアップライトピアノの方はよく練習に使っていた。それでも思い出すのは、Clavinovaだ。
Clavinovaは私とほぼ同い年の電子ピアノで、液晶もやはり古い。背景が緑色で黒字の、ゲームウォッチを思い起こさせる液晶だ。
「ボサノバ」
この半角のボサノバが古い液晶を流れてくる。その曲を選択すると、ザ・ボサノバの曲が演奏される。
ハワイの、ヤシの木が街路樹として生えている広い道。オープンカーに乗って、水色地にハイビスカスの柄シャツを着た男二人が、はしゃいでいる。運転手はドアに手を乗っけている。Clavinovaの液晶に流れた映像だから、正確に水色のシャツを着ていたかさだかではない。それに、こんな映像が流れていたかどうかもさだかではないのだ。
それでも、やはり何度もこの映像が蘇ってくる。
一旦すべて退けて大きく距離を取ったあと、こちらから近づいていかないとやるべきことへは近づけなかった。一度お湯をすべて抜いて、ため直す必要があった。
根本から矯正しなければ、家から給食袋を持っていくことはないし、家で宿題をすることもできない。やれ、もってこいと迫られ、その場で泣くほど反省したところで、それらは手からすり抜けてしまう。
たとえため直したとしても、どこかのタイミングで、身体との接続が切られる。積極性を繕ってどこまでも進んでいこうとするけれど、実は限界というものがあった。(!)
日常に意識を向けられるようになるころ、私は見る。目の前をさっそうと通り過ぎる二人の男を。どこかで一つのジャンルになるまで枯れてしまったボサノバと、それを弾く亡霊を。私は過去を召喚することで、ここにいることができた。お風呂は疲れて気持ちよく入れなかったが、洗濯物はちょうど終わっている。